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絹本着色阿弥陀三尊像

絹本着色阿弥陀三尊像

室町時代如来寺伝来。

 

来迎印を結んだ阿弥陀如来、両手で蓮華を執る観音菩薩、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵菩薩が、それぞれ雲上の踏割蓮華に乗り、左上方から現われた姿を描く、阿弥陀三尊来迎図である。

 

阿弥陀三尊は通常、脇侍に観音菩薩、勢至菩薩を配するが、本画は勢至菩薩の代

わりに地蔵菩薩が配置される。

 

 

このような三尊形式は、 浄土教の来迎図に例がみられる。室町時代頃の作と推定される。

 


木造釈迦如来及び阿難、迦葉像 延宝5(1677) 范印官·范宗仁作

本堂に安置される本尊である。釈迦如来像は肉髻に螺髪をあらわさず、耳朶不環、口角をやや上げて正面する。衲衣、覆肩衣、裙を着ける。腹部に裙の結び目をあらわす。両¥腕屈臂、左手は腹前、右手は胸前でそれぞれ第13指を捻じ、他指は伸ばす。右足を外に結跏趺坐する。左脇侍の迦葉像は、円頂、胸前で両手を組み、顔をやや右に向けて直立する。

 

右脇侍の阿難像は、円頂、胸前で合掌し、顔をやや左に向けて直立する。

三尊とも寄木造、彫眼漆箔仕上げの像である。「寺社書上」によれば、本像はもとは本所牛嶋(墨田区向島)の牛頭山弘福寺に、代々禅宗の檀家であった小関夫妻が寄進したものであったという。しかし住持が本尊に帰依しないとの理由で、小関夫妻は改宗して養玉院の檀家となり、本像を移坐した。また、各像の背面朱漆銘によれば、本像は延宝5(1677)、長崎において唐人の范印官、范宗仁によって造られたことがわかる。本像は上瞼が覆い被さるように、目を急な角度で刻んでいることから、優しい目元になっている。長くて厚みをもった耳朶、やや口角を上げて笑みを浮かべる表情、大まかにつかんだ衣文表現などは、范道生(1637-70)作の京都萬福寺(京都府宇治市)諸像とも共通し、この時期に多く造られた黄檗様の一例といえる。范印官、范宗仁についてこれ以外に作例は知られない。本像は制作年代と作者が明確であり、この時期の黄檗様彫刻を知る上で欠かすことのできない像である。

 

木造釈迦如来及両脇侍像

木造釈迦如来及両脇侍像木造


木造阿弥陀如来立像

木造阿弥陀如来立像

平安時代後期-鎌倉時代前期

無量光殿(阿弥陀堂)本尊阿弥陀如来立像である。肉髻、螺髪粒状。肉髻珠、白毫をあらわす。耳朶紐状貫通。目を細く開く。小鼻を小さくあらわし、鼻穴は軽く穿つ。三道相をあらわす。右腕を覆う衣、衲衣、裙を着ける。衲衣は左肩から前膊に掛け背面、右脇、腹前を通って右肩から前膊にかけて掛ける。両腕屈臂、左手は大腿部の高さで掌を正面に向け、第1指をやや曲げて第2指を深く曲げ、第1指の指先腹と第2指の指先側面を接して、他指はのばす。右手は胸の高さで掌を正面に向けるほかは左手に準ずる。両足をやや開いて、足先を外に向けて直立する。ヒノキ材、寄木造、彫眼、現状は漆地、古色仕上げ。肉髻珠、白毫は水晶嵌入。頭体幹部は耳の前で前後2材矧とし、頭部は体部に割首とする。体部の背面は元1材と思われるが、朽損のため左半分と裳裾部に後補材が当てられる。両肩、手首より先、両足先別材矧ぎ。本体は後頭部。

両耳朶、胸の一部、体部背面の左半分ならびに裳裾部、両肩より垂下する両袖を含む全部は後補。枘、その他の小当太上塗りの全部は後補。肉髻珠、両脚の後半分および足枘は欠失。本像は近世におこなわれた修理により、その像容がそこなわれていたが、昭和60年の修理により元の姿によみがえった。大部分は後世の修理によるものの、両足付け根から膝下にあらわれるY字形の衣文線などから、平安時代後期の穏やかな造形が見てとれる。本像は宗家の持仏であったと伝えられる。伝えによると、安徳天皇の入水時に本像も入水した。その後安徳天皇とともに本像も引き上げられ、安徳天皇はその後対馬で暮らし、本像は宗家の持仏となったという。


寛永21(1644)大仏師大夫慶雄金剛作

 

本堂内に安置される、養玉院開基天海の坐像である。探題帽を被り、眼窩がやや窪む。額にやや皺を、頬にほうれい線をあらわす。まぶた上下にまつげを描く。鼻孔をやや穿つ。鼻は鷲鼻。上唇を下唇で噛む。僧綱領の朱衣、袈裟、横被をつける。横被は右肩、袈裟は左肩下がりで吊り、左肩前寄りに紐の結び目をあらわす。両腕屈臂、左手は膝上で掌を下に向け、全指を曲げて払子の毛先を執る。右手は膝上で掌を下に向け、全指を曲げて払子の柄を執る。曲彔に坐し、朱衣、袈裟の裾を垂下させる。爪はわずかにあらわす。寄木造、玉眼嵌入。頭部は朱衣の境で差首。瞳は中心から黒、茶、白。体部の構造は不明。彩色は現状、白頭巾、朱衣、袈裟と横披に雲文、宝相華、さや形文などが描かれているが、玉眼と表面仕上げは近世の後補である。像内に「甲申寛永廿一天 初夏大吉日大僧正天海後影 大仏師大夫慶雄金剛刻之」の銘があることが報告されているが、現在は頭部が固定されているため銘文を確認することはできない。銘によれば、本像は天海示寂の翌年、寛永21年に大仏師大夫慶雄金側によって造られた。天海像は、日光·輪王寺像(寛永17(1640)七条大仏師法眼康音作)や川越喜多院像(寛永20(1643)大仏師式部卿作)が知られており、本像も制作年代と作者の判明する天海像として貴重である。作者雄は、大雄寺(栃木県黒羽町)の大関増輔坐像(正保3(1646))や泉福寺(埼玉県桶川市)慈覚大師坐像(9(1632))、輪王寺法華堂慈眼大師坐像(慶安2(1649))の作者であることが北口英雄氏によってされる。

 

木造天海僧正坐像

木造天海僧正坐像


木造五智如来坐像 五躯

木造五智如来坐像 五躯

木造五智如来像のうち薬師如来坐像

木造五智如来像のうち薬師如来坐像

木造阿弥陀如来坐像

木造阿弥陀如来坐像(通称「清水の大仏」)

西善寺(長野県松本市)木食長音作

江戸時代前期-中期

 

如来堂(瑞應殿)に安置される五智如来像である。向かって右から薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥如来、釈迦如来像が配される。寄木造、彫眼、漆箔仕上げの像で、光背、台座は近代の後補である。

五智如来は、大日媜来にそなわる五つの智恵をそれぞれ備えており、五智五仏とも呼ばれる。日本に密教が伝わって以降の、平安時代から造立例が知られる。

「寺社書上」所収の但唱伝記によれば本像は但唱とその弟子達によって下伊那郡の小横沢(現在の長野県松川町)で造られ、天竜川を下って江戸まで運ばれた。

 

 

同史料によれば、寛永13(1636) 319日に寺地を拝領したことが記されており、この頃に五智如来像が安置されたとわかるしかし享保10(1725) 218日麻布鳥居坂より出火した火災により、如来寺の堂宇は皆焼失した。さらに「武江年表」によれば、延享2(1745)212日に増上寺より出火した「六道火事」により、但唱の造った丈六の石造仁王尊や石造地蔵尊も跡形のない程焼けたという。この火災により、但唱らの造った五智如来像も焼失したとみられる。再造立の時期については、宝暦10(1760)に「芝大仏六萬人講」(20)がのこることから、その頃と考えられている。五智如来のうち、薬師如来像のみは他の像と比べて、その像容を異にする。平安時代後期の像を思い起こさせるような、穏やかな面相、肩の曲線も自然で、衣の襞を薄くあらわす「寺社書上」には薬師如来像のみ「開山之直作」としており、現在まで本像の頭部が唯一の当初像と考えられている。しかし、各地にのこる但唱の造立例と比べると、その趣は異なる。但唱作の像は、目は刻む程度にあらわし、鼻と口を小さく作った幼子のような面貌を持ち、頭部が大きく肩が,,ったような姿勢を示しており、いかにも専門仏師の手によるものではない自由な作風を示す本像は但唱のそれとは異なり、均整の取れた面相である。本像と松本市西善寺にのこる念来寺旧蔵の本尊阿弥陀如来坐像(中尊、木食長音作)や地蔵菩薩半伽像は来寺六世明阿作)を比べると、穏やかな面相、均整のとれた体躯や衣文表現など、本像との類似点が多い。

 

これらのことから、本像の造立には長音ら念来寺の木食僧が携わった可能性も考えられる。 


本堂内に安置される、養玉院二世念海の坐像である。やや下に口元を引き締める。探題帽を被り、僧綱襟の法衣、橫被、七条両腕屈臂、胸前で合掌し、結跏趺坐する。寄木造、玉眼嵌入、彩色仕上げ。本像は像底銘により、玄悦坊快運が願主となり、寛文11年に仏師長五郎によって造られたことがわかる。養玉院如来寺蔵「当院歴代年譜」によれば、玄悦坊は念海の弟子であり、師恩に報いるため、寿像を造立したという。像劫念海(1623-1690)は、一世賢海の甥にあたり、母は空源(及意上人)の娘、父は空源の弟子のひとり空運である。本像の作者長五郎の、本像以外の造立例は知られていない。養玉院如来寺蔵の「過去帳」に長五郎の名前が見え、彼が天和2(1682)に没したことがわかる。また、「過去帳」内に長五郎の妻や娘などの名前も見られることから、長五郎は江戸在住の仏師であったことがうかがえる。像底銘により、文政8(1825)に仏師の伊藤源慶が修理したことがわかる。

木造念海坐像 寛文11年(1671) 仏師長五郎作

木造念海坐像 寛文11(1671) 仏師長五郎作


(像底銘)     于時文政八乙酉年六月吉辰日

再興仏師伊藤源慶  東叡山屏風坂下谷

養玉院

法印権大都堅者念海寿影

願主

玄悦坊快運為謝師恩彫刻之

仏師 長五郎

 

寛文十一年辛亥八月六日

 

石造線刻地蔵菩薩坐像

石造線刻地蔵菩薩坐像

 

指定 昭和五十七年二月十日(彫刻第二十号)

 

高さ267cm 巾85cmの安山岩の表面に、

結跏趺座(座禅の形)する地蔵菩薩坐像が線刻されている。

 

像の高さは、119.5cmで、体の立体感を巧みに表現し、

衣の文様も簡潔な線でふくらみをよくだしている。

 

また、裾の部分は二重線でふちどり、独特な装飾性を見せている。

 

本像の蓮華座の下の銘から、慶安四年(一六五一)に念仏講衆二十五人に

よって制作されたものであることがわかる。

 

平成二〇年二月二十八日

品川区教育委員会


東京都有形文化財

紙本着色高輪車町及如来寺門前絵図

紙本着色高輪車町及如来寺門前絵図

「品川屋津山下  歌川広重筆」

如来寺門前部分図


紙本着色仏涅槃図

紙本着色仏涅槃図 元和6(1620)-寛永20(1643)

 

養玉院伝彩旧暦の215日、釈尊が80歳で入滅した場面を描いた図。沙羅双樹のもと、釈迦は宝台上で右脇を下にして西を向いて横たわる。釈迦の母摩耶夫人が我が子を助けようと天から降りてきて薬袋を投げるが、沙羅の木に引っかかってしまい届かなかった。多くの弟子達をはじめ天人衆、瞓䭾などあらゆるもの達が集まり、釈尊の死を嘆き悲しむ様子が描かれる。画面右端下方に、「長谷川等言筆() ()」があり、本画の作者は長谷川等言仿ることがわかる。等言について他の作例は知られないが、その名前から長谷川派一門のひとりであったと考えられる。

 

画面左上に天海の賛が書かれている。天海が大僧正を称するのは元和6年頃からとの指摘があり、本画はそれ以降天海没年の寛永20年以前の製作と考えられる。涅槃会の本尊として毎年215日のみ開帳される.

 

 

養玉院如来寺の文字写真

 〒140-0015

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TEL:03-3771-4816   FAX:03-3778-3420

 住職:遠賀 庸達 

 

最寄駅: JR横須賀線西大井駅下車10分
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東急バス五反田-川崎線馬込駅前下車10分
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